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2013年2月27日水曜日

気になった一文集(日本語 ver. No. 7)

地球温暖化を防ぐ -20世紀型経済システムの転換-
佐和隆光 著
岩波新書1997年初版 2006年第13刷 発行
¥740-

地球温暖化問題はきわめて多面的であるため、理解することも解決することも難しい極めつきの難問である。(pp. ⅷ)

時間的な視野の長短、空間的視野の広狭の次第によって、地球温暖化問題への関心と取り組みは大きく左右される。このことこそが、地球温暖化対策についての合意形成を難しくする最大の障害なのである。(pp. 5)

今ならほとんど自明とおぼしき「成長の限界」を、高度経済成長期のさなかに言明するのには、大変な勇気を要したに違いあるまい。(pp. 25)
「ローマ・クラブ」が『成長の限界』を公表したことを受けて

もともと日本人は、質実剛健、質素倹約を旨とする生活様式を尊んできたはずである。金持ちが金持ちであるがゆえに尊敬されるということは、この国の長い歴史の中でついぞなかったし、ぜいたくは軽蔑の対象になりこそすれ、憧憬の対象になることはなかった。(pp. 27)

持続可能性という価値規範を本能的に体得した消費者が、そうした宣伝に励む企業の製品をボイコットする自由もまた保証されていることを忘れてはならない。(pp. 29)

途上諸国に別のパス、すなわち持続可能な経済発展のパスをたどることを動機づけるために、先進国は何をすればよいのかを私たちは思案しなければなるまい。(pp. 32)

時間的視野と、将来のエネルギー環境関連技術の可能性について合意形成を図ることが、持続可能性という規範を意味あらしめるための必要な手続きなのである。(pp. 34-35)

ことエネルギー消費に関する限り、私たちが欧米として一括して捉える地域は、大西洋を境にして分断されているようである。(pp. 39)
ヨーロッパは倹約型、アメリカは大量生産・大量消費型

地球温暖化問題への各国の対応ぶりは、文化社会学的の観点から見ても興味は尽きないことであろう。過去の様々な事例を挙げて「日本人は環境にやさしい」と主張する向きもあるが、私の見るところ、戦後の日本における人々の振る舞いから推すと、日本人は環境にやさしいとはとうてい言い難い。環境にやさしいかどうかの証となるのは、たとえば環境と開発といった二つの相反する価値の緊張関係に遭遇したときの人々の振る舞い方の次第である。(pp. 40)

発展途上国の経済発展を促すのが「資本の論理」ならば、世界的な規模での資源、環境、食糧の問題を引き起こすのもまた「資本の論理」なのである。(中略)先進国政府は市場に適切に介入したり、途上国への援助を適正化することによって、危機回避に努めることを自らの責務と心得るべきなのである。(pp. 45-46)

地球温暖化防止のために求められる技術革新は、理工学的な技術革新には限られず、人文社会学的な洞察と政策措置、すなわち社会経済システムに適切な改編を施すための施策をも含む、広義の技術進歩であると理解されなければならない。省エネルギーや新エネルギーに供する工学技術と、社会経済システムの改編のための経済政策技術、そして新しい文明の構想と想像とが手を携え合ってはじめて、地球温暖化問題への有意義な取り組みが可能となるのではなかろうか。(pp. 57)

大量生産、大量消費の文明は、1910年代から20年代にかけてのアメリカにおいて形作られた。ところが、その後に大量廃棄の四文字をくっつけたのは、戦後の日本ではなかったろうか。(中略)地球温暖化問題の突如の浮上は、大量廃棄を組み込んだ戦後日本の高度成長の持続可能性に対して警鐘を打ち鳴らすに至ったのである。20世紀型工業文明を見直し、21世紀型の新しい文明を構想することを、大量廃棄を高度成長の基盤の一つに据えてきた私たち日本人に課せられた、重い課題と心得なければなるまい。(pp. 60-61)

もし大量生産、大量消費の下に大量廃棄の四文字を付け加えたのが戦後の日本なのだとするならば、この国の経済社会のありよう、そして人々の意識のありようは、まさしくアンチ・メタボリズムのそれに他ならない。そうした反省をよろしく肝に銘じた上で、メタボリズム文明の具体像を細密に構想し、それを支える哲学、科学技術、そして経済学を大胆に構想し、世界に向けてメタボリズム文明社会の構築を率先垂範すること。これに勝る国際貢献はあり得ない、と私は考えている。(pp. 62)

地球温暖化問題が発信する「大量廃棄を伴う工業文明は持続不可能である」との警告に、私たちは真摯に耳を傾けなければなるまい。もし今日ある文明が持続不可能であるとするならば、持続可能性という価値規範に照らして、今日ある文明の改編を企図するのが、当然の論理的帰結であると言わざるを得まい。(pp. 63)

文明の一大転換は様々な利害得失を伴う。総じて言えば、20世紀型工業文明の担い手であった産業、自動車、石油、鉄鋼、電力などの産業にとってみれば、少なくとも短期的には、文明の転換を快しとしないであろう。しかし、時間的視野を幾分長期化し、持続可能性という価値の座標軸をもう一本新たに追加しさえすれば、これらの産業界にとってすら、メタボリズム文明への転換が望ましいことに気づくはずである。(pp. 63)

世代間の公正という価値規範にのっとれば、私たちは、次世代、次次世代に負の遺産を残してはならない。(pp. 64)

省エネルギー技術の更なる開発と普及、新エネルギーの利用可能性の拡大、リサイクルの推進、製品寿命の長期化、公共交通機関の利便性の向上等に資する施策が望まれる。のみならず、技術革新を促し、機器の普及を促し、輸送のモーダル・シフトを促すためには、社会制度の改変による動機づけが欠かせまい。のみならず、市民一人一人の自主的な取り組みもまた欠かせないのである。その意味で、地球温暖化問題は、市民一人一人が等しく関与しなければならない、21世紀最大の難問の一つなのである。(pp. 64)

日本人の環境問題への関心は総じて低く、公共的なモラルの水準も高くはないし、発展途上地域に対する関心も総じて薄い。(中略)一つは、この国の一人当たりGDPは世界一であるにせよ、日本人の生活は「環境にやさしい経済活動ができる」ほど十分「豊か」ではないこと。(中略)もう一つは、この国に住む人々の学歴は高くとも、「環境問題に不安を抱いてきちんと発言できる」ほど、その知的水準は高くないことである。(pp. 66-67)

工業化のスピードが戦後の日本のように急であれば、工業化に伴う環境の汚染に気を配る「ゆとり」などあり得ない。1960年代までの日本はまさしくそうであったし、今日の東アジア諸国もまた然りなのである。(pp. 68)
※2013年2月現在、連日中国の大気汚染がニュースを賑わせていますね。

もし環境問題が産業公害や都市公害に限られるのなら、大気汚染や水質汚濁という目に見える環境汚染が、開発優先の施策に対して否も応もなく歯止めを掛けるだろう。しかし、地球環境問題に関しては、被害が及ぶのは数十年先のことである。のみならず、被害者と加害者の識別が曖昧なこともあって、工業化の途上にある国々に、地球環境の保全の必要性を納得してもらうのは至難の業だと言わざるを得ない。工業化を遂げた先進諸国に住む人々は、途上国の人々と地球環境問題について語り合うとき、かつて自分たちも地球環境問題への配慮を欠いていたことを、また傾斜の急な工業化が環境の汚染や破壊を見えにくくすることを決して忘れてはなるまい。(pp. 68-69)

地球温暖化問題は、南北問題という古くて新しい問題に対して、もう一つの座標軸を追加したのである。(pp. 69)

エネルギー多消費型ライフスタイルに慣れ親しみ、「もったいない」という言葉とは無縁な若者に、ライフスタイルの転換を促すには、息の長い地道な取り組みが必要とされる。(pp. 77)

1980年から82年にかけての3年間、私たちは「エネルギー消費の増加を伴わない経済成長」という摩訶不思議なことを経験したのだが、冷夏という天の恵みを割り引くにしても、今後の省エネルギーを考える上で、この3年間の経験から学ぶことが多々ある。なおこの間、CO2の排出量は7.5%も減少した。(pp. 82)

化石燃料の消費削減のためには、中小製造業の省エネルギー、そして近時、増勢を強めている運輸部門と民生(家庭と業務)部門のエネルギー消費の削減を主軸に据えていかねばなるまい。(pp. 91)

原子力発電所に限らず、ゴミ焼却所、高速道路等々、様々な施設の建設に当たり「ノット・イン・マイ・バックヤード」(そうした施設の必要性は認めるが、私の家のすぐそばには作って欲しくない)というのが、誰もが共有する心理なのである。(pp. 107)

電力の消費地と生産地が距離的に隔たっているところに、アメリカでは見られない日本の電源立地の複雑さが潜んでいる。(pp. 108)

夏の暑い日に出力の高くなる太陽光発電は、電力の負荷曲線のピークカットのために有効であると評価して差し支えあるまい。(pp. 115)

電力供給設備の効率向上のためには、負荷曲線のピークを下げる(ピークカットする)こと、言い換えれば、負荷曲線をできるだけ平坦化することが望まれる。(pp. 116)

企業や消費者の倫理と自主に委ねておくだけで地球温暖化が防げるのなら、そんなありがたいことはない。しかし、既述のとおり、自由化と国際化が限りなく進む中、倫理と自主に頼る在来型手法の有効性はもはや失われたと言わざるを得まい。だとすれば、残りの手法である経済的措置と規制的措置との組み合わせに頼るしか、他に手だてがないのである。(pp. 142)

ヒトも企業も、短期の経済的な利得に視野を限れば、炭素税の導入はパレートの意味で望ましい(すべての社会構成員を現状維持または現状よりもベターオフにする)政策とは言えない。しかし、ヒトも企業も、短期の経済的利得の極大化のみを追求する近視的な主体ばかりではあるまい。時間的視野をいくぶん長期化するだけでも、短期の極大化行動とは違う行動が帰結するはずである。(pp. 165)