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2019年12月10日火曜日

追悼:高橋太郎

Taro Takahashi, Who Uncovered Key Links Between Oceans and Climate
LDEO, December 4, 2019
より。彼の文献から私も多くのことを学ばせてもらった。哀悼の意を込め、LDEOによる追悼文を全文訳(意訳含む)。R.I.P.

高橋博士の近影(LDEOのブログより)


全球の二酸化炭素の流れを追跡
筆:Kevin Krajick

二酸化炭素と地球の気候に関する重要な発見をした海洋学者である、高橋太郎がニュージャージーのEnglewoodで12/3に亡くなった。享年89歳。60年以上にわたる彼のキャリアの中で、高橋らは、海洋が大量の二酸化炭素を吸収すると同時に放出しており、大気と交換していることを明らかにした。彼がもたらした知見は多くあるが、「人類が排出した二酸化炭素の大部分が海に吸収されていること」について現代の科学者は誰でも知っている。

高橋は第二次世界大戦前に日本で生まれ育ち、若い時に渡米し、アメリカに定住した。彼は20世紀半ばの地球の気候システム研究者の生き残りである。心臓発作による彼の死は、ニューヨークPaliisadesに籍を置くコロンビア大学のLDEO(彼がほとんどのキャリアを積んだ機関)によって確かめられた。

高橋が1950年代後半に研究を始めたとき、科学者らは大きな謎に直面していた。化石燃料の燃焼が温室効果ガスである二酸化炭素を大量に大気に放出しているのに、半分ほどしか所在を特定できていなかったのである。残りはどこへ行ったのだろう?船で取られた数百万もの海水の分析を通じて、高橋らは排出された二酸化炭素の4分の1が海によって吸収されていることを実証した(ちなみに、残りの4分の1は陸によって吸収されていた)。高橋の発見は、温室効果ガスのダイナミクスを扱う多くの後続研究の礎となった。

高橋は1930年11月15日に東京で生まれた。当時、科学者は大気の二酸化炭素を測定し始めたばかりであり、当時の二酸化炭素濃度は300 ppmを下回ると推定されていた。海の二酸化炭素の濃度についてはほとんど何も分かっていなかった。

彼の父高橋Takezo(武蔵?竹蔵?)は1920年代にテキサスの油田で働く鉱山エンジニアであった。彼の母、高橋Tamako(珠子?玉子?)はthriving hat(アメリカ製帽子)の製造会社を経営する家の出身であった。ともにアメリカ文化の崇拝者であった。アメリカとの契約の後押しもあり、高橋の父は帽子の製造会社を継ぎ、日本で唯一の西欧式Stetson帽の販売会社となった。若き高橋青年は、当時私学に通っており、ニューヨークヤンキースやHuckleverry Finnといった書籍のファンに次第になっていた。その時、日本が真珠湾を攻撃した。「子供として、その件には大変困惑した」とのちに彼は語っていた。アメリカとの契約は切れ、帽子商売は破綻した。次第にアメリカによる東京の空爆が激化し、彼が知る東京は跡形も無くなった。1945年には、広島の病院で医師をしていた彼の叔父が、アメリカの原爆によって跡形もなく姿を消した。

高橋は1953年に鉱山エンジニアの学位を得て東京大学を卒業した。米国物理学協会で彼は、「アメリカのアメリカの大学院を選んだのは自然の流れだった」と語っている。叔父を通じて、彼はアメリカ駐留軍で働く数名のアメリカ人と会い、彼らはコロンビア大学に応募することを彼に勧めた。ニューヨークへと移り、Upper East Sideの家族の友人とともに住んだ。高橋は当初英語を学ぶことに大変苦労したが(英語に加えてドイツ語とロシア語も学位獲得に必要とされていた)、1957年に地質学で博士号を取得した。彼は愛するヤンキースに直接会うことができた。彼が学生の頃、凍えるフィラデルフィアを訪れ、独立宣言のコピーの展示を見たことを回想している。普遍的な人権に関する文章を読んで、彼は嗚咽して泣き始めたそうだ。彼は1961年にアメリカ市民になった。

高橋は金鉱での仕事を望んでいたが、Maurice Ewingによって脇道にそらされた。EwingはLDEOの創設者であり、当時世界を牽引する海洋学者であった。高橋の最初の契約は、Lamontの研究船Vemaに10ヶ月乗船することであった。1957-58年の国際地球物理学年の一環として行われた研究航海での彼の仕事は、海洋が大気から二酸化炭素を吸収しているのか、放出しているのか、或いはその両方をしているのかを調べることだった。当時大気中の二酸化炭素濃度が315 ppmを上回り始め、科学者らはその影響について調べることになった。その研究計画の中で、若手研究者のCharles Keelingは大気のサンプリングを続け、20世紀と21世紀の大気中の二酸化炭素濃度の疑いようのない上昇が明らかになった。その海に関する必然的な帰結(二酸化炭素濃度の上昇)を明らかにする計画を率いることになったのが高橋であった。

10ヶ月の航海で、高橋はニューヨークを出発してグリーンランド沿岸に到達し、その後南極に向けて南下し、最終的に南アフリカに入った。航海のほとんどの間、高橋は船酔いに苦しみ、板の間から海水が浸水しないようにシャワーカーテンが張られた甲板の下で寝た。高橋がケープタウンに着いたとき、Ewingは電信を通じて、下船して別の壮大な旅に出るよう指示をした。それはアフリカ大陸を南アフリカからエジプトまで縦断することであった。彼が命じられたのは、複数の地点で植物や土壌を採集することであった。その目的は、度重なる大気中核実験の結果放出された90Srがどれほどアフリカ大陸に分布しているかを調べることであった(90Srが普遍的に存在することがのちに判明した)。

1961年、彼は航海に関する最初の論文を公表した。その大部分は、海洋が大気の二酸化炭素とどのように相互作用しているかの基礎に関するものであった。彼はその後、海洋の二酸化炭素分布をさらに詳細に明らかにするための、新しい分析機器と測定技術の開発に直ちに着手し、当該分野のパイオニアとなった。彼のもっとも親しく、付き合いの長いLDEOの地球化学者の一人がWallace Broeckerだった(昨年亡くなった彼は「地球温暖化」という言葉を科学の用語にした人物とされることも多い)。1970年代後半と1980年代前半の研究プロジェクトの中で、高橋とBroeckerはエクソン・モービル社と協力して、石油タンカーに設置したモニターを通じて海洋表層の二酸化炭素濃度に関するデータを収集し始めた。高橋はその同僚とともに、大学やその他研究機関の集めた膨大なデータについて研究し始めた。

単純にまとめると、彼らの観察によれば、南極と北極で冷たい海水が沈み込む時に大量の二酸化炭素が海に取り込まれる。同時に、全球を循環する海水は赤道付近で湧き上がり、蓄積した二酸化炭素の一部を放出する。そのサイクルには数百年もの歳月を要する。しかしながら、そのプロセスは複雑なパッチワークのようなもので、ある場所では関係が逆転するし、季節/エルニーニョといった長期的な気候変動/海流/風やプランクトンの豊富さにも影響を受ける。一般的には、少なくとも今のところ、海洋は放出するよりも多くの二酸化炭素を吸収している。それは、長期的な蓄積が原因であり、海は大気よりも50倍もの炭素を蓄えているためである。しかしながら、最近の測定によれば、海は人類の二酸化炭素を吸収するのに疲弊しており、吸収は鈍化している可能性があるという。

長年、測定は手で行わなければならず、高橋や学生たちは船で長い時間を費やさなければならなかった。しかし長年かけて、彼とその研究チームは技術を改良・自動化し、作業者がもはや不要になった。多くの商船が彼らの自動測定装置を積み、測定を続けている。

1960年代と1970年代にLamontの暫定期間中に、彼はスクリップス海洋研究所、カリフォルニア工科大、ニューヨーク市のクイーンズカレッジでポジションを得た。Rochester大で教授として働く間、彼はのちの53年間の妻となる、遺伝学者であり臨床ソーシャルワーカーであるElaine Acheに出会い、1966年に結婚した。
(長年の間、彼がのちにビートルズのジョン・レノンと結婚するオノ・ヨーコと婚約したという噂が同僚の間で飛び交っていた。2018年のインタビューで、高橋は「その話は大げさだ」と語っている。確かに、彼がオノ・ヨーコと会ったというのは事実だ。彼女の裕福な家族は高橋と同時期に東京からニューヨークに渡っている。高橋は偶然ヨーコの兄弟と知り合いになり、1956年にその兄弟が高橋を家族に紹介している。高橋がヨーコと会ったのはほんの数回である。一度、彼が彼女を、その他の日本人駐在員とともにマンハッタン・ストリートの角にあるハンバーガー屋でのグループデートに誘ったことがある。「それが話の全てだ。何も起きていないよ」と彼は言っていた。)

高橋は2003年頃まで海で過ごし続けた。その後、彼がデザインを手助けした新技術によって船がデータを彼のラボに直送するのが簡単になり、彼はほとんど家で過ごした。一方で、彼は二酸化炭素が工業用煙突からどのように放出され海底に貯蔵されるかについての研究に手を出し、地球のマントルと月のコアの化学を理解するための同僚の実験にも関与した。全部で、彼は約250編の主著および共著論文の著者となった。

高橋の気候に関する態度は時間とともに変化した。1990年代のはじめ頃には、彼はBroeckerを含むLDEOの4人の研究者とともにアメリカ上院議員のアル・ゴアと面会した。ゴアは二酸化炭素が招く地球温暖化の積み重なる証拠と、何ができるかについて議論したいと望んでいた。当時、高橋は「ゴアほど熱心になることはできなかった」と語っていた。「暴走温暖化の危険性については認識していたものの、それが悪いことだとは完全に思っていなかった。2℃温暖な状態が本当に人類にとって悪いことなのだろうか?」と彼は付け加えた。

その後数年経て、彼は考えを改めた。2009年には、人類の二酸化炭素生産が記録的な高さに到達した(その後ずっと記録が塗り替えられている)とする世界的な報告書の共著者となった。それ以来、炭素排出の削減は人類にとって「非常に差し迫った課題」と呼ぶようになった。2010年には、環境リーダーシップに対して国連のChampion of the Earth賞を獲得した。彼は国連のビデオの中で、「今もっとも疑問に思っているのは、人間活動の尻拭いをするために、海が二酸化炭素吸収をし続けるかどうかだ」と言っていた。解決策として、二酸化炭素を大気から捕獲する技術とともに、より効率的な車や発電所が必要だと言っていた。

高橋は死の数週間前に健康状態が悪化するまで、新しい研究に取り組み続けた。彼は回復して仕事に復帰しそうだったが、深夜に発作に見舞われ亡くなった。彼は宇宙学や宇宙における人類の位置付けについて常に興味を抱いており、その夜にスティーブン・ホーキンスのA Brief History of Timeを読み始めたばかりであった。彼の娘、スージーによれば、しおりは16ページのところにあったらしい。

高橋は、妻、アリゾナ州立大学で航空工学の教授を務める息子ティモシー、演技教授でありニューヨークの劇場の監督である娘スージー、日本に住む妹の山田Yoko(葉子?)と兄弟のKatsuo(勝雄?)によって生かされた。

彼が亡くなった時点で全球の大気中の二酸化炭素濃度は約411 ppmとなり、さらに上昇し続けると予想されている。