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2014年1月3日金曜日

論文を書くということ

新年あけましておめでとうございます。

今年はちょうど論文執筆中ということもあり(また金欠という事情もあり)、田舎には帰省せず(毎年のことですが)、論文執筆に明け暮れています。

現在2本の執筆を同時進行で進めており、また2月に新たに行う実験でもう1本執筆する計画です。
博士課程の締めくくりとしてもう1本分のデータを収集し、最終的には4本揃えて学位を取りたいと考えていますが、筋書き通りにいくかどうかは甚だ不透明です(特に実験系はうまくいかないことが往々にしてあります)。

どれもまったく異なるプロジェクトなので、同時に執筆することも可能だとは思いますが、研究を進めていると、海外の動向の変化を含めて、色々と細部の変更点が出てきます。



1つの論文はこれまでに既に3つの雑誌から「reject(掲載拒否)」を受けているのですが、昨年8月に初投稿をしてからも、少しずつ変更を余儀なくされています。
論文を執筆している最中にも世界は待ってくれないので…。。

特に僕が着手している「炭酸塩骨格中のB/Ca・δ11B」を用いた研究は、今まさに古海洋学研究においてもっとも注目を集める間接指標の一つですが、期待が大きい反面、まだ揺籃期にあり、「その厳密性を批判的に議論する論文」、「その細部を十分に検討しないまま応用に踏み込んだ研究」と、入り混じっているのが現状です。

僕自身、先に着手したのが’過去’の研究なので、どちらかというと後者の枠組みに入ります。しかし、勉強すればするほどに、その不確かさが浮き彫りになってしまい、博士研究の残りの時間をかけて前者の課題に取り組もうとしています。

しかしながら、研究というのはどこか中途半端な段階で、ある程度の成果が得られればそれを公表する必要性に迫られます(学位獲得・科研費申請・任期の更新などが実情で)。
研究に終わりなどないはずですが、一種の悟りの境地で、えいやっと公表しなければならないわけです。

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腹の底から得心できないことが世の中のほとんどである。だから、適当なところで結論を出さないといけない。その説明のできない一種の悟りの境地で「適当なところ」を見極めることが肝要である。
松下幸之助「リーダーになる人に知ってほしいこと」

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ちょっと怖いのは、今ある知識をもとに最善の論文に仕上げても、それは公表後すぐにその変更を迫られるかもしれないし、また例えば研究を後輩に引き継いだ際に人によって解釈が異なり、それがもとで次の論文が停滞するなどといった事態が生じる可能性があることです。
1本目の論文は書きやすく、(同じ著者であれば別ですが)2本目というのは非常に大きな困難を伴います。

科学は本質的に不完全なものの積み重ねです。原理上、実証不可能な地質学はその最たるものです。
現在分かっている知識を過去にも当てはめることで、過去の復元がなされますが、そこには常に大きな不確実性を伴います。

研究が続くことによって、最終的には一つの真理へと収束することは言うまでもありません。しかし、その途中段階というのは大きな不確実性の大海を彷徨う小舟のようにゆらゆらと行きつ戻りつします。

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... how science is a self-correcting process and that thousands of independent studies from various institutions and countries build on one another to form our current state of knowledge.
Ilissa B. Ocko、 Michael E. Mannの書籍紹介にて。Science 337 pp. 296

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いま現在受け入れられている教義(central dogma)も、そうした荒波にさらされ、生き残ったものです(地動説・進化論・プレートテクトニクス・ミランコビッチサイクルなど)。

不確かさを大いに含んだ論文は、公表後、順風満帆に科学コミュニティーに受け入れられることもあれば、大きな批判の対象になることもあるでしょう。

真理に近い論文も、批判の対象になる論文も同じように引用されるため、それは単に引用数だけでは計れないものです。しかしどちらの研究も学会にとっては非常に意味のあるものです。

科学は客観性を重んじるものの、科学者の解釈によってそれは歪められ、かなり主観的に受け止められるのが実情です。
ピア・レビューの制度も、もとは客観性を高めるために、わざわざ他の科学者に2重チェック(査読)をお願いするというものですが、最終的には力関係であったり、編集者の裁量によって判断されてしまうものです。

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科学という営みに公平な基準を持ち込み、科学を進展させるためにピアレビューは進化した。だが、しょせんは人間がつくった制度である。過信は禁物だし、例外を認めることも忘れてはならない。(中略)とにかく、この世の人間関係はすべて力学である。論文掲載をめぐるパワーゲームは、実力派の科学者、ネイチャーとサイエンス、そして他の科学専門誌も交えて、日々、進行中なのだ。
竹内薫「科学嫌いが日本を滅ぼす〜ネイチャー・サイエンスに何を学ぶか」

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自分の論文がrejectされたことの愚痴のように聞こえてしまいそうですが、ここで述べたかったのは、科学の本質的な不確実性、そして論文がうまく「accept(受理)」されるかどうかにも研究者ごとの主義主張が大きく関与しているということです。

お利口さんになって、学会に好まれる優等生的な学術論文を書くことは可能です。
でも僕はそうはなりたくない。
あくまで自分の信念に基づいて、ある一つの真理へと向かう可能な限り最短距離で、研究をしたいという思いがあります。

科学雑誌からrejectを受けるたびによく指導教官から言われるのは、

「いずれどこかの雑誌には掲載される」

ということです。それは基本的には正しいことです。

僕らの古気候学の分野でも数10の学術雑誌があり、インパクト・ファクターを気にしなければすぐに掲載されるような雑誌があるのもまた事実です。
でもそれは本当に研究者として意味のある業績でしょうか?

僕は学術領域で世界の研究者の鼻を明かしたいと思ってしまいます。
もちろん学会をいたずらに混乱させたいのではなく、他人より一歩先に真理に近づきたいからです。
そしてできるだけ多くの人に自分の論文を読んでもらい、議論したいと考えます。

とりあえず今は目の前の2本の論文をどうにかしたい。一つの事情としては、今年5〜6月に次の学振に向けた書類提出が控えているためです。
本来ならばもっとすんなり投稿できていた論文をこの時期まで引きずってきてしまったため(あらゆる事情が原因で)、いま窮地に立たされています。

Publish or Perish(研究業績を出せ、さもなければ消えよ)」という常套句に端的に表現されるように、国際誌に論文が掲載されない限り研究者としての価値は無いに等しい。

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「研究は趣味としてやるのが一番」とはいいますが、一方で、給料をいただく以上、プロフェッショナルでなくてはなりません。プロの研究者の仕事は、研究をして、その結果出てきた成果を論文の形で公表すること。論文が世に出て初めて、一連の研究に一区切りがつくのです。
「世界で一番詳しいウナギの話」:塚本勝巳 著

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長文を書くのはとても久しぶりなので我ながらまとまりがなく残念ですが、過渡期でもある博士課程最後の2014年度(予定では)を前に、ちょっとした意思表示の投稿でした。